hitori aruki !

書き続ければ賢くなれると信じて。

AIとデザイン。

AIと暮らす。「未来の家」

昨夜、NHKEテレ)の『AIってナンだ?超AI入門』という番組を見ました。

人工知能に精しい松尾豊 東大特任准教授と、お笑い芸人の徳井さんが

最前線の研究を紹介するとともに、AIと人間の未来 あるいは人間そのものの生き方 について思索していく番組なのですが、これがかなり面白くて。

 

AIスピーカー(スマートスピーカー)の延長、と想像するとわかりやすいのですが、

今日の夕食を提案してくれたり自分のバイタルを計測して鏡に映し出してくれたり…

家が知能を持ち始めたとき、私たちの暮らすその家は、どんな空間になっていくのか。

というのが今回の内容でした。

 

ゲストはデザイナーで建築家の佐藤オオキさん。

数々のインテリア・建築を手がけてきた佐藤さんは、デザインについて…

デザインというのは、「目に見えないものをいかに見える化するか」である

とおっしゃっていました。

 

「そうなると、未来のデザインってすごく難しくなるんじゃ…」

私の頭にそんなことが思い浮かびました。

 

 

AIを持つ家では、

(例えば、システムキッチンが人工知能?をもったら)

いままであった道具はどんどんいらなくなっていくだろうし、

色んな機能が机の中へ、壁の中へと溶け込んでいくだろうと佐藤さんは予想しています。

 

そのように、デザインする対象自体がが減っていってしまうとしたら、

生活は豊かになっても、心は本当に豊かになれるのでしょうか。

 

デザインにおいて大切なことは機能性だけではない、と私は考えています。

私だけでなく多くの人もそう考えているでしょう。

「このペンの膨らみはホントはいらないんだろうけど そこがいいんだよなあ。」とか。

手作りのマグカップだって、そのちょっと不器用なところがあったかく感じたり。

モノに対して愛着が湧く理由は、機能性とは違うところにあると思います。

ちょっと回り道なデザインが、そういう感情を引き出してくれる。

さらにその感情の積み重ねが、いつしか心の一部にもなりうる。

というのが私の考えです。

 

便利でシンプルが当たり前になっていったとしたら、デザインが入り込む余地はどのくらいあるのでしょうか。

AIはクリエイティブなことはできないとたくさんの人は言いますが、クリエイトという行為そのものが求められなくなる可能性も否定できません。

 

www4.nhk.or.jp

 

 

 

 

私が大学で学んでいること。

 

私は現在大学二年生で、人文学部に所属しています。

専攻は芸術文化系でしたが、哲学の授業もいくつか受けています。

 

中学校のとき、校長先生が

「学問はあなたの世界を広げてくれます」

と言っていました。

私は大学生になって初めて、特に哲学を知って初めて、

その意味を理解したように思います。

 

大学でまず知ったのは、あらゆる学問の根元にあるのは

「哲学」だということです。

この学問が扱う<内容>があらゆる学問の土台だというよりも、

この学問が持つ<姿勢>こそが、あらゆる学問が生まれた理由だ

って言ったほうがいいのでしょうか…?

 

 

哲学に持ち出される話題を深く議論するためには

歴史や社会学など「THE・文系」な学問への関心だけでなく、

科学や数学など、理系に分類されるような学問への関心、知識も

大いに必要になります。

 

言語哲学に数学の関数が出てきたときは驚きでした。(笑)

かろうじて高校で習った知識が残っていたので良かったのですが、

数学を大嫌いでいたことを後悔したのは

あの時が初めてでした。

 

自分のほんの少しの知識が、こんなところに繋がるのか!

あの時学んだことを、ここでも使えるんじゃ…?

学問の共通性といえばいいんでしょうか、

そのようなものを発見したとき、私はひどく感動しました。

 

今日見たり聞いたりしたことを書いてみたり、

過去に得た知識を照らし合わせてみたり…

「哲学」の姿勢をもっと自分に落とし込めるために、

自問自答的な要素を交えながら記事を書いていけたらいいなと思っています。

 

 

ここまでで既にお気づきかもしれませんが、

文章を書くスキルはかなり乏しいです。

知識もまだまだ浅いです。

アドバイスしてくださる方、

知識や考えを共有してくださる方、大歓迎です。

 

どうぞよろしくお願いします。